歴史・沿革

 渡岸寺観音堂は、慈雲山光眼寺と申し天台宗のお寺でした。今から凡そ1300年前、聖武天皇の天平8年に奈良の都を始め各地に疱瘡が蔓延し、死者が相次ぎ人々の苦しみは大変なものでした。天皇は、いたくお心を悩まされ、当時、加賀の白山で修行した高僧・泰澄に除災招福を勅命されました。勅を奉じて泰澄は祈りを込めて十一面観世音を刻み、一宇を建て、観音法を修し息災延命、万民豊楽の祈祷をこらしてその憂いを断ったと伝えられています。それ以来病除けの霊験あらたかな観音として信仰され、桓武天皇の延歴年間には比叡山の伝教大師(最澄)が勅を奉じて七堂伽藍を建立して、多くの仏像を安置しました。寺領も273石あったそうです。

 しかし、寺運は栄枯盛衰甚だしく、約450年前の元亀元年、浅井・朝倉の兵と織田軍との姉川合戦で、戦火を浴び、お寺は全て焼けてしまいました。観音様を敬う村人たちは兵火が堂宇を襲うや猛火をおかして観音様を運び出し土中に埋めて難を免れたと言われております。戦のあと井口弾正によって、お堂を立て安置し、わずかに雨露を凌だと言われております。寺領は没収されましたが、観音様は村人達の氏仏として敬われ、慈雲山光眼寺の法灯は護られました。

 明治21年宮内庁臨時全国取調局の九鬼隆一氏やフェノロサなど数名が調査に訪れ、観音様が日本屈指の尊像と賞賛されました。それで明治30年に模範とすべき特別国宝に指定されました。観音様は全国的に注目されるようになりましたが、お堂は老朽化が甚だしくとても酷い状態でした。それで本堂の再建運動が起こり、この地域や近畿一円の人々や全国から、また小川清平氏が名古屋で開いた観音講の方々の浄財のおかげで大正14年に平安様式を取り入れた新しい本堂と庫裏が完成しました。
村で護ってきた観音様は国宝に指定されるまで、村の共有物だったのですが、公式として村では国宝の観音様を所有できませんでした。それでお世話になっていた向源寺に所属させました。今日では渡岸寺観音堂(向源寺)と呼ばれております。